0 はじめに

 弁護士の報酬制度の変遷について書こうと思ったのですが、その前に1949年(昭和24年)に弁護士法が改正され、現代の「弁護士」制度が成立する以前の状況についてのまとめです。

1 江戸時代(遅くとも元禄15年~) 公事宿(公事師)

 「江戸幕府の訴訟においては、訴訟関係人を泊める旅館(公事宿)の経営者(公事師と呼ばれていた)が、訴訟関係人を法廷に連れて行ったり後ろに控えて付き添っていることから訴訟のやり方を心得るようになり、訴訟関係人の相談にしばしばあずかっ」ていました(平成23年版刑事弁護実務 1頁)。
 また、公事宿の主人や番頭らは、上記のような訴訟関係人の法廷への連行・訴訟関係の相談対応だけでなく、訴状などの訴訟書類を作成したりもしていたようです。

 なお、1702年(元禄15年)には、公事宿と無関係ないわゆる事件屋的な公事師を取り締まる触書が出されていますので、このころにはすでに公事宿の制度及び事件屋的公事師による弊害が存在していたと考えられます。その後、明治5年(1872年)に代言人が誕生するまでの間存続していた公事宿(公事師)制度は、少なくとも約170年間存続していた息の長いものでした。

2 明治5年~25年 代言人

 明治5年、「司法職務定制」第十章において「証書人代書人代言人職制」が定められ、「各人民の訴状を調成してその詞訟の遺漏無からしむ」ための代書人(42条 代書人 第1)、及び「自ら訴ふる能わざる者の為に之に代り其訴の事情を陳述して枉冤無からしむ」ための代言人(第43条 代言人 第1)制度が採用され、代書人・代言人が誕生しました。
 なお、司法職務定制制定当時の「代書人」は、訴状を調成する仕事であり、明治7年には太政官布告第75号により代言人と一元化されています。
 また、明治9年代言人規則制定により免許制が導入されるまでの間、代言人・代書人となれる要件は非常に緩やかであったため、多くの公事師らが代言人・代書人に移行したものと考えられます。

 「代言人と代書人の二元主義が採られたのは、フランス法のアヴェ(代訴士)とアヴォカ(弁護士)に倣ったものといわれる」(平成23年版刑事弁護実務 1頁)との記載があるとおり、当時の代言人・代書人制度は、かなり西欧の影響を強く受けた制度だったことがうかがわれます(現在でも、英国や香港ではバリシター(法廷弁護士)とソリシター(事務弁護士)の二元主義が採られています。)。

 「三百代言」という言葉は有名ですが、後述するとおり、明治26年の弁護士法制定により消滅したことから、代言人制度は約20年間という短命に終わっています。 

3 明治26年~ 弁護士

 明治26年に「弁護士法」が制定され、「弁護士」が誕生しました。
 同法制定当時の弁護士の職務については、「弁護士は当事者の委任を受け又は裁判所の命令に従い通常裁判所に於て法律に定めたる職務を行うものとす但し特別法に因り特定裁判所に於て其の職務を行うことを妨げず」(第1条)と規定されており、一元化後の代言人(訴状等の作成+法廷活動)と同様の活動が想定されていたようです。

 なお、代言人であった者については、施工後60日以内に弁護士名簿への登録を請求すれば試験を経ずに弁護士登録をすることができた(附則35条)ほか、本法施行前に委任を受けた事件については、その判決が出るまで職務を行うことができました(同36条)。そのため、代言人の多くはそのまま弁護士に移行したものと考えられます。

 その後、同弁護士法は改正を重ね、第二次世界大戦終戦後の1949年(昭和24年)の改正によって弁護士自治を獲得するとともに、日本弁護士連合会(日弁連)が設立されたことにより、現代の「弁護士」制度が誕生しました。
 なお、「弁護士」制度は明治26年(1893年)から起算しても、令和4年(2022年)時点で約129年なので、まだまだ公事宿制度ほどの歴史はありません。

5 まとめ

 このように、訴訟をやりたい人たちが頼る先は、公事宿→代言人→弁護士とわずか30年程度の間に大きく変遷していきました。
 次回は、この流れを踏まえた弁護士の報酬制度の変遷についてまとめてみたいと思います。